『絶望は月の光に照らされて』
神楽坂朱夏
雨の中での葬式は、ただでさえ悲壮な空気をじっとりと湿らせ、重い雰囲気を漂わせてしまう。どこまでも静かに降りくる雨を、人は「遣らずの雨」などと好き勝手な情緒を込めて口にしているが、今の僕から言わせれば、この雨ほど迷惑で、気鬱なものはなかったのだ。もちろん、父や母にそんなことを言えばたしなめられるのはわかっている。でも、自分のこの想いに嘘はつけない。
僕は十六で、棺おけの中で澄まし顔して眠っている妹――ひとつだけ年の離れた妹「だった」夕月(ゆつき)に対して、親身になって泣くほどでもなかったし、かといって悲しくないかといえばそんなこともない、要するに表現のしがたい複雑な気持ちだったのである。そんなだから、ふとした折に、客観的に・冷静にこの状況を観察している自分に気付いたりする。
思えばあっけないものだった。あっけなさ過ぎて、悲しむ暇も十分になかった気がする。
ひどい肺炎をこじらせてしまった妹は、病院に入って三日目の、綺麗な月の夜に、すっと枯れてしまったのだ。いつも元気だった彼女が――まるで夢のようだった。今もまだ、心のどこかでは信じきれないでいる。
僕は妹があまり好きではなかった。といっても、嫌いというほどではなくて、昔はよく二人で遊んでいたし、最近でも、顔を合わせれば話をしていた。でも、時折何を考えているかわからない表情を見せたり、こっちの気持ちを見透かしているようなあの瞳が、そう、苦手だったのだ。
焼香も終わり、退屈な読経もあと少しで唱え了りそうな気配を見せていた。夕月の親友だったらしい女学生、近所の世話焼きのおばさんたち、父、母。そして雨。至る所が水にあふれている。わざとらしい悲しげな音楽が、皆の心の雨をいっそうひどくしているようだった。しかしそれも、降る雨が弱くなるにつれて、次第に弱まっているように感じられた。
僕は目を閉じて、太く掠れた、渋みのある読経の音色を聞きながら、自分なりに夕月についての記憶を引っ張り出してみる。引っ張り出すといっても、出てくるものは一つしかない、初めから一つしかなかった。
あの日も月が綺麗だったのを憶えている。あの月の美しさが、僕と妹を、少しだけ狂わせてしまったのだ。そう、信じたい。
「ねえ、兄さん、キス、しようか」
夜も随分と更けた頃、テスト勉強中の僕の部屋にそっと入ってくるなり、あの日の妹は、とんでもないことを言い出したのだった。・・・・・・時々、わかっていながらも彼女が僕を冗談半分にからかうことはあったし、僕もそのことを十分にわきまえて彼女に対応
することはあった。でも、そのときの彼女は、明らかにいつもとは違っていた。いつもの笑みが――猫のような無邪気な笑みがなかった。彼女の瞳はどこまでも僕を見据えて放そうとしなかった。
僕の返事を待たずに、彼女はこっちに近付いてくる。灯りを落とす。射し込む月の青い光。照らされた彼女の肌は、白絹のように美しく、見る者から総ての言葉を奪い取る。僕は追い詰められた鼠のように、もはや何もできなかった。
・・・・・・あと三歩、二歩。一歩。そして。
かさかさに乾いた彼女の唇が、同じく乾いた僕の唇に、かすかに、触れた。と、突然の異物感。活きの良い白魚のような、彼女の、舌、だった。
烈しくなる心悸。どこかに「冷静になれ」と叫ぶ自分がいて、そいつと背中合わせで極度の興奮を愉しもうとする自分がいて。それでもう、わけがわからなくなってしまった。自らも、舌を彼女の動きに合わせる。蠢く二匹の蛇のように。冴える青い十六夜が、二人をどこまでも狂わせて・・・。
――キスの応酬は、ふとした瞬間に、おのずから止んでしまった。青い静寂が空間を支配していた。一秒、二秒。三秒。そして。
「・・・・・・ごめんね」
ほんの少しだけ空気を震わせて、夕月はそっと、僕の部屋を出て行った。月光は一群の雲に隠れ、辺りは全き闇に包まれた。
我に返った僕は、今のは何だったのかと、とりあえず自らに問うてみた。しかし、答えなど初めから導かれるはずがなかった。
唇をなぞる。舌を動かし、感覚が確かにあることを確認する。唇も舌も、はっきりと妹の感触を覚えていた。しかし、頭がそのことを正しく認識できていないのだった。
なぜ妹は、急にこんなことをしたのだろうか。そして僕はどうして――何も言えなかったのだろうか。
あまりに突然の出来事だったので、わからないままにああなってしまったと言うことはできる。でも、それは彼女が僕の領域を犯すことに、僕が彼女の領域を犯すことに(一時的ながらも)没頭したことに対する理由には決してならなかった。
夕月の涼やかな視線に、あの時の僕は縛られてしまったのだ。何かを企んでいるようで、しかしどこか悲しそうな、見る者をも傷つけてしまいそうだった繊細なまなざし。不思議なほど真剣で、思いつめているようで・・・・・・あんな妹の表情を見たのは、前にも後にもその一度だけ、それ以降、彼女はその夜の出来事がどこにも存在していなかったかのように、それまでと変わりなく、いつもの無邪気な明るさと一欠片の不可解さでもって僕らの日常を過ごすようになったのである。――
出棺の頃には雨もすっかり小降りになって、複雑な悲しみは相変わらず続いていたけれど、さっきよりも心は幾分は落ち着きぶりを増しているようだった。西の空にはわずかながら青さも認められて、夜にはこの辺りも晴れるだろうと、そんなことを予感させるようだった。
霊柩車に後続するマイクロバスの中で、僕はぼんやりと物思いにふけっていた。
『ごめんね』
・・・・・・どうして夕月は、あの時僕に謝ったのだろうか。僕が一番気にかかっていたのはそのことだった。その言葉自体は、彼女が僕を冗談半分でからかったあとの決まり文句(クリーシェ)だったけど、では彼女はやはり僕をからかってあんなことをしたのだろうか。否、そうとは決して思えなかった。消え入る直前の月に照らされたあのときの彼女の表情は、まるで自分のした行為に傷ついているようだったから・・・。
唇をゆっくりとなぞってみたけれど、さすがにあの日のように鮮明な感覚を思い出すことはできなかった。なんだか、悲しい気分だった。
街外れの斎場へ到着するとすぐに、妹のカラダは巨大な「暖炉」の中へと納められてしまった。頑丈な鉄扉の前にそっと立てかけられた彼女の遺影の微笑みが、僕をどうしようもなく切ながらせた。僕は必死でそれから逃げるようにして斎場の外に出て、思わず空を見上げた。僕は逃げられなかった。
小雨そぼ降る鈍色の空へ昇ってゆく一条の白い煙・・・・・・彼女はあの煙になってしまったのだ。あの唇も、あの表情も、あの声も、永遠に喪われてしまった。喪われてしまった!
鳥辺野の別れの辛さを僕は今まで知ることがなかった。冷静だった僕の心を、あの遺影は、あの煙は、いとも容易くかき乱してしまった。それでも僕は泣けなかった。どうしても泣くことができなかった。
どうして雨は止もうとしているのだろうか。あの煙をどうか空へ昇らせないよう、夕月を天へ遣らぬよう、今降らなければ意味がないのに、あんな見せかけだけの、偽物の悲しみばかりを演出したばかりで、肝心のときに雨は僕の想いをあっさりと裏切ろうとしている。煙はどこまでも天を目指す。そして散り、消えてしまう・・・・・・。
遺骨拾いには参加しなかった。そんなものはもはや僕にとって意味をなさなかったから。そのままマイクロバスで家まで帰り、何もやる気の失せてしまった僕は、親戚との会食の場も遠慮して自室へと戻り、喪服のままベッドに転がり、意識を失わせた。
・・・めを覚ますと辺りは暗く、電灯をつけて時計を見ると、夜ももうすっかり深くなってしまっていた。重たい精神を引きずるように階下へ行くと、家の中はすっかり静まり返っていた。形だけなら、それは「今までの日常」と何も変わりがない。でも、そこに“妹”の姿はない。何もかも、変わってしまった。
父も母も憔悴し、机に向かい合って座り、何も喋ろうとはしない。親戚の帰ったあとの家は重い沈黙を弄んでいた。その静寂の息苦しさに堪えきれず、次の瞬間には僕は家を飛び出していた。
外は昼間の雨もすっかり止んでしまい、雲もほとんど追いやられ、塵の少ない綺麗な夜空だった。風は冷たく、僕の鈍った頭を少しだけ引き締めてくれるようだった。そして、全天に君臨する、白い月。街に青い光を投げかけるそれは、あの日と何も変わらない姿で、僕を見つめている――。
ああ・・・・・・僕はこれからもこの月を見る度に、夕月のことを思い出すのだろう。彼女は僕に答えを教えないままに消えてしまった。いつか彼女の口から真意を聞ける日が来ると勝手に信じ込んでいた僕が馬鹿だったのだ。どうして僕は何も聞かなかったのだろうか。チャンスはいくらでもあったはずだ。なのに。僕は一度もあの日のことを俎上に乗せることをしなかった。
――簡単なことだ。僕は結局聞きたくなかったのだ。聞いてしまえば、あの、心地よくて、気味の悪い、矛盾したような微妙な関係が崩れてしまいそうで、怖かったのだ。でも、今となってはもう何もかも遅かった。あの日のキスの意味も、妹の謝罪の意図も、すべてが月へと帰ってしまった。
そう・・・僕が生きている限り、何度も同じ周期を繰り返す月は、まるで喪ったものを取り戻せない絶望を、満月のたびに僕にリフレインさせるのだろう。それは冷ややかな嘲笑だった。そして、非難のまなざしだった。
僕はこの幻影に一生追われ続けるのだ・・・・・・考えるだけで、その残酷さに身が引きちぎられそうな想いがした。
『ごめんね』
あの日の妹の声が、月を見つめる僕の中で何度も何度もリフレインする。本当に謝らないといけないのは僕だったのだ。僕は兄として、きみの誘惑を死んででも拒まねばならなかった。でも、今となっては、どれもこれも、後の祭りだ・・・・・・きみはもういない。
ただ、月だけが、あの日と何も変わらないでいる。
月を背に、逃げるように歩く僕の前には零された墨のように、長く長い影が闇を伸ばしていた。月から目を背ければ影、影から目を背ければ月――どちらにせよ、僕は逃げられないのだ・・・。
そうして、時を超え、空間を越え、どこまでも続くような自らの影を踏みながら、僕はいつまでも前途茫洋たるこの絶望を考えずにはいられなかったのである・・・・・・。
(終)
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