月澱
 
一刻堂 樹
 
 
「絶対に産むから!」
まただ、またあの夢だ。
俺の頭の中で呪詛のようにリフレインするこの一言。
あの日から俺はもう狂っているのかもしれない……
 
両親の留守中に俺は妹を襲った。梅雨の空にめずらしく太陽が顔を出した日のことだった。
ひどく衝動的な行動だった。
頭の中で誰かが叫んでいた。
『おまえのやっている事は間違っている』
言われなくても分かっている。しかし自分では抑えられない衝動だった。
自殺するときはきっとこんな気分なのだろう。
 
それに誰でもいいわけじゃない。
妹じゃなきゃだめだった。俺は妹を愛しているからだ。
肉親的な愛情ではなく、一人の女性として愛していた。
子供の頃から月よ星よと眺め、可愛がってきた。
初潮を迎えるまでは一緒に風呂にも入った。父兄参観や運動会には必ず参加したし三者面談にだって出席した。誕生日、クリスマス、お正月は欠かさなかった。良き兄であるために勉強もした、守ってやるために空手も始めた、自慢される兄であるために身なりも気を使った。
俺の情熱の全てを妹に費やした。俺の青春の全てを妹に捧げた。俺の全ては…妹だった…
妹も俺を愛している。
そう信じていた…
 
ある日、妹は俺に相談をしてきた。
「お兄ちゃん、もしわたしに彼氏が出来たらどうする?」
唐突にして衝撃的な相談だった。俺は冷静を装って「会う」とだけ言った。
「ふ〜ん…じゃあ今度連れてこようかな〜、なんてね」
「待て、お前彼氏がいるのか?」
衝撃的な言葉だった。今まで夢想だにしたことのない台詞だった。
冗談だと言ってくれ!いつもみたいに私が好きなのはお兄ちゃんだけだよって言ってくれ!
切実なまでにそう思った。
でないと俺の存在意義が…消滅してしまう。
しかしその望みは叶わなかった。
「う〜ん…ないしょ!だってお兄ちゃんには言えないから。」
落ち着け!まだいると決まったわけじゃない!焦るな!
これは思春期特有の気まぐれな発言かもしれない!そうに違いない。
しかいそれでも俺は尋ねずにはいられなかった。
「いるんだな?連れてこい。」
冷静にしていたつもりだったが少し声に怒気があったようだ。妹は感づいた
「何する気なの…」
「何もしない、ただ話をするだけだ。それの何が悪い?」
「嘘でしょ?また…繰り返すつもりなの?」
 
5年前、偶然ではあったが俺は妹がいじめられている場面に遭遇した。
妹は学校のウサギ小屋の中に閉じ込められていた。
小屋の外には2人の男子生徒がいた。
俺は妹を助け、その2人の始末をした。
 
おそらくそのことを言っているのだろう。だが俺はあえてとぼけた。
「何を繰り返すんだ?」
「わかってるくせに!また…行方不明にする気でしょ…」
妹にはそう伝えていた。現実はもっと残酷で、救いのない結末だからだ。今頃彼らは仲良く真っ白になっていることだろう。
「分かっているなら何も言うな。」
「……お兄ちゃん頭おかしいんじゃない!?普通じゃないよ!なんでそんなに私にこだわるの!
…もうほっといてよ!」
「妹を守るのは兄としての当然の義務だと思うんだが?」
「…私はお兄ちゃんの所有物じゃないの!だからもうほっといてよ!」
「所有物?俺はそんな風に思ったことはないけどな。そんなに怒っていったいどうした?」
「どうもこうもないよ!お兄ちゃんは間違ってる!もうお兄ちゃんの顔なんて見たくないから!」
その一言が俺の世界を崩壊させた。
その後のことは覚えていない。
気がついたときには実の兄に汚された妹が俺の前に居た。
赤と白とに染められた妹は美しく、俺はますます妹を愛するようになった。
そして、凶気の日々は始まった。
 
一度襲ってしまえば後はもう堕ちてゆくだけ。
来る日も来る日も俺は妹を犯した。
いろんなことも試した。
妹にはもう…拒む力は無かった。
少なくとも俺はそう思っていた…
 
狂うとは、日常と非日常が判別できなくなることだろうか?
もしそうなら非日常を破壊するものは何だろうか?
ある日、妹が怯えながら俺に話をしてきた。
「お兄ちゃん…生理が…来ないの…」
一瞬の躊躇も無く俺はこう言い返した。
「堕ろせ」と。
自分がここまで人非人だとは思わなかった。
言っておいて自分で驚いたくらいだ。しかし『自分は狂っている』『俺はもう俺じゃない』『この狂気は別人の仕業』そう思っていたかった…
それは明らかに現実逃避だ。自覚している。しかし逃避以外に方法はあるのか?
破綻した理論で壊れかけた自我をつなぎとめる。俺はまだ正気だ。
 
だが次の瞬間、妹の一言が2人の『俺』を動転させた。
「いや……嫌っ!絶対に嫌よ!私産むから!絶対に産むから!絶対に、絶対に産んでやるんだからっ!」
そう言って妹は部屋から出て行った。
俺は正直、ここまで反抗する力が残っていたとは思わなかった。妹の正気の世界はもうすでにないものと思っていた。 やはり新しい生命の力だろうか。それとも母としての動物的本能だろうか。どちらにせよ
どちらにせよよくない兆候だ。結果として今の俺の頭の中は『どうやって堕胎させるか』で占められていた。 こんな状況で産めるはずがない。仮に産んだとしても隠し通すのは到底不可能だ。ここにきて警察に介入されてたまるか。妹は絶対に誰にも渡さない。
もう…引き返せないところまできている。進むしかないんだ…
たとえどんなに間違った道でも、振り向いた先には何もないんだ。
今の俺にはそう思うしかなかった。
しかし後になって気づく。目の前には絶望しかなかったことに…
 
次の日、俺は仕事場から薬を持ち出した。プロゲステロンとエストロゲン、それとエピネフリンだ。
前2つはいわゆる不妊薬、そしてエピネフリンは…副作用で胎児の生命に危険をもたらす薬だ…
俺はこれらを適量に混合して、妹に服用させた。
もちろん妹には告げずに…
 
5日後、妹の叫び声が聞こえた。俺は慌てもせずにトイレに駆け付けた。
半ば予想は着いていた。
そこには大量の血と、羊水と、出来損ないの胎児があった。
そして…正気を失った妹の姿があった。
 
俺が妹の姿を認めた次の瞬間、妹は走りだした。一目散に、ベランダへ向かって。そして飛んだ。
 
3秒後の地面には肉の塊があった。
 
予想外の事態に、俺の世界は暗転した。
 
救いなどもうどこにも存在していなかった。
 
気が付くと俺は白い部屋にいた。窓には格子が嵌まっていて、やけに天井が高い部屋だ。
白衣を着た男が俺に質問をした。
「なぜあんなことになったんだい?」
血と、胎児と、肉塊が目の前にフラッシュバックした。そしてまた世界は暗転した。
 
次に目が覚めると俺は拘束衣を着ていた。
事態を把握しようと天井を見上げたとき、また白衣を着た男が入ってきた。なぜか顔に殴られた痕がある。状況を鑑みてもう一人の『俺』がやったんだろう。
そしてまた質問。
お決まりの暗転。
リフレインする現実が俺の精神を蝕んでいく。
ああ…これが生き地獄か…
 
また妹の夢を見た。
妹は夢の中で何度も俺に叫んだ。
『絶対に産むから!』
そして俺は目覚める、生きていることを後悔しながら。
格子越しの窓から見える、狂い咲くように輝くあの月の下。俺はまたあの夢を見る。そういえば妹を犯した日もこんな空だった。
全てを失くした俺に永遠の呪いがリフレインする…

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