Moonlit Memories
朝、僕はいつものように、自分自身の部屋で目を覚ました。
よくよく考えてみれば、これはなんでもない日常の出来事。けれど、今日はなぜかいつもとは違う感じがする。そう、なんだか一週間の旅行から帰ってきた次の日の朝のような、そんな感覚。この感覚の原因・・・真犯人はわかっている。昨日の……いや、昨晩の出来事。それは……。
※
僕は夜の公園で、一人ブランコ前の柵にもたれかかって、星の少ない空を見上げていた。「いきなり呼び出したからなぁ・・・」
何度目かのため息をついたとき、右手の方にある公園の入り口あたりで砂を踏む音がした。僕はバッとその音のした方に向き直る。そこにいたのは、待ち焦がれていた人だった。
「こんばんは、ユキ。どうしたんだ? こんな夜中に呼び出したりして」
彼はほとんど感情を表に出さずに言う。でも、その姿はいつものようではなく、少し前屈みで、すごく弱々しい。
「こんばんは、ユキ。悪いね、こんな夜中に。ちょっと言いたいことがあったから」
僕は立ち上がって、ユキの前に移動する。夜のせいもあってか、近くで見るユキの顔は青白かった。
「学校、辞めるんだってね」
ユキを促して柵にもたれかかった後、僕はそう切り出した。
「ああ」
ユキは僕の言葉に驚く風もなく、呼吸をするようにさらっと言った。
「本気かい?」
僕は真っ直ぐにユキの瞳を見る。でも、ユキの瞳はなにも見ていなくて、ただ夜空の向こうをじっと見つめていた。
「ああ、本気だよ」
「君が、本気でそうしたいと願っているの?」
ユキのかわすような口ぶりに、僕は少し強い口調で言ってみる。喧嘩になるかもしれないけれど、それでも構わないと思う。彼の本心が、それでわかるのだったら。
「……何が言いたいんだ?」
ユキの声が怒気をはらみだす。それに負けないように、僕もはっきりとした口調で言い切る。
「僕は、君にいてほしいんだ」
この言葉に、ユキはびっくりした顔をしている。僕からこんなことを言われるなんて、ゆめにも思っていなかったのだろう。
「あれは事故なんだ。だから、相手の子には悪いけど、ユキが学校まで辞める必要なんて無いんだよ」
そう。ユキは事故に遭った。フェンシング部の練習中に、相手の女の子を……。
「事故…だと? あれが事故で済むと思うのか? おれは彼女を・・・」
「わかってる」
僕はユキの言葉を遮るように声をあげる。頼むから、最後まで言わないで。
「わかってるよ。だけど、あれはいくつもの偶然が重なった事故なんだ。だから、そんなに自分を責めないで」
自分から束縛されようとしないで……。
僕も我慢してるんだから。
「そんなわけないだろ! おれは、この手で、彼女を・・・」
月の蒼い光。
微かな虫の声。
それを運ぶ心地よい風。
すべてが、止まった。
すぐ目の前にはユキの瞳。いつもより大きく見えるのは、たぶんびっくりしてるからだと思う。
「もう、それ以上言わないで。ユキが自分を傷つけていくのを見たくないよ」
僕はゆっくりとユキから離れる。ユキはまだ驚いた顔のまま。
もう、我慢することなんてできない。
「僕はユキのことが好きなんだ。だから、どこにも行かないで」
僕は真っ直ぐにユキの目を見て、一気に言った。
でも、ユキは目を丸くしたままで、固まっている。僕はいつも以上に自分の口べたを恨んだ。
僕は昔から、思ったよりも言葉で気持ちが伝えられていないようで、結構不利益というか嫌な目に遭ったことがある。少しは改善していこうと努力はしたのだけれど、あまり良くなってないみたい。
僕が少しうつむくと、僕の頭にぽんっと手が置かれた。驚いて顔を上げると、ユキが僕を真っ直ぐに見ていた。そして、僕の目を見て柔らかく微笑む。
「ありがとう」
ユキが僕を抱き寄せる。ユキはかなり細身だけれど、見た目よりがっしりしていた。そして、温かかった。
再び僕らは唇を重ねた。
しばらくして、ゆっくりと離れる。見つめたユキの顔を、一滴の涙が伝う。
首の付け根に強い痛みを感じた。
「ありがとう。でも……ごめんな」
霞む意識の中で、ユキの声が聞こえた気がした。
僕は、自分のベッドの上で目を覚ました。
目覚めたときに、ユキの姿はなかった。気を失った僕を、家まで運んでくれたのだろう。
「ユキ……」
呟いて浮かんだ顔は、いつもの元気な笑顔ではなく、最後に見た涙だった。
体を起こしてみると、机の上に小さなメモ用紙がおいてあるのが見えた。僕は手を伸ばしてそれを取る。
目の前に持ってきたときに、カーテンの隙間から射し込む青白い月明かりに、書いてある文字が浮かぶ。
その言葉は謝罪ではなく、自分を傷つけるものでもなかった。でも、僕にとっては大きな言葉。今まで考えたこともなく、全く気づいてなかったことだった。
いつの間にか視界がぼやける。
頬を温かいものが流れる。
とめどなくぽろぽろと。
自分でも気づかないくらい。
あまりにも優しい涙だった。
※
制服に着替えて朝食を摂る。これもいつもと同じ日常の一部。
「由紀、もう八時十五分だけど、大丈夫なの?」
台所からお母さんの声が聞こえる。食パンを頬張りながら、何言ってんの、まだ八時でしょ、と腕時計を・・・。
「わーっ!! 何でもっと早く言ってくれないのよっ」
どうも、部屋の時計が遅れていて、実際はお母さんの言うとおり、始業十五分前みたい。
急いでパンをコーヒーで流し込んで、家を出る準備をする。
「それじゃあ、行ってきまーす」
玄関を出てすぐに走り出す。家から学校まで、走れば十分で着く。今の時間だとかなりきついかもしれないけれど、それでも走るしかない。
朝だけど、人のまばらな道を思いっきり走り抜ける。やっぱり運動部に入っているから、これくらいは楽勝だね。
紅く色づき始めた街路樹たち。
少し前まで熱風だった風は、今では肌寒いくらいに感じられる。
小さな川を渡るときに、何匹かの赤とんぼとすれ違った。
日に照らされてきらきら輝く青い水面の上を、まるで泳ぐように赤とんぼが行き交う。
赤とんぼは止まっているように見えて、少しずつ動いている。それは、人も同じなのだろう。
止まらずに、少しずつでも前へ・・・。
そうこう考えているうちに、見慣れた校舎が目の前に現れる。
キーンコーンカーンコーン・・・。
ガラッ。
八時三十分ちょうど。
席に着くと同時に先生が入ってきて、朝のホームルームが始まる。
「えー、まず最初にみなさんにお伝えしなければならないことがあります」
教室の中を見回してみる。やはりユキの姿はなかった。
「えー、阪井往人くんが学校を辞めました」
先生の言葉に教室内がどよめく。でも、クラスの人気者だったにも関わらず、こういうことになって騒ぎが起こらないのは、みんなも薄々感づいていたからなのだろう。
僕はそのことを聞いても、何も驚きはしなかった。そりゃあ、昨夜本人から聞いているのだから当然のこと。
あ・・・。
癖って、なかなか抜けないよね。
「かなり急な話だったんですが、本人の強い希望だったので、あえて引き留めはしませんでした」
引き留めても無駄だって。
長い間ユキを見てきたから、その辺は誰よりもわかっていると思う。
だって、今の自分はユキによって作り上げられたのと同じだから。
だから……。
「ねえ、由紀・・・」
背中をとんとんとたたかれて振り返る。
「なぁに? さっちん」
後ろの席の黒田さつきはなぜか浮かない顔をしている。
「よかったの?」
何のことを言っているのかはすぐにわかった。彼女には一度話したことがあったから。
「うん。終わったよ、全部」
そう。終わったんだよ……。
「・・・そっか。まあ、仕方ないよね」
仕方なくはないけど、もう終わったからいいよ。
「よし。今日はばーっと遊ぼうっ」
「うんっ」
「そこうるさいよー。静かにしてやー」
「あ、ごめんなさい」
先生に注意されて、二人ハモってしまう。その様子を見てみんなが笑う。
それを受けて二人も笑う。
これからはもう誰かに合わせたりはしない。
それが、ユキから最後に教えてもらったことだから。
「ねえ、どこいこっか」
さつきが小さく耳打ちする。
「わたしは……」
開け放たれた窓から、秋風が吹き込んでくる。
壁にピンでとめてあった小さな紙が、風に乗って机の上に舞い降りる。
表には、細いけれど力強い字。
『君は君だよ』
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