冷たい手


一人きりの帰り道は時間がゆっくりと進んでいく。
由宇が側にいない。たったそれだけのことなのに俺の世界は停滞している。
右手の先には、何もない。無意識のうちに由宇の左手を探している自分がいて、その自分を認識したら余計に悲しみがこみ上げてきた。
もう…あの温もりを感じることはできないのだろうか…


帰り道も半分になろうかというところで雨が降ってきた。
天が俺の心を代弁して啼いている。さっきまでの曇天はこの予兆か。
俺は傘も差さずに雨に打たれることにした。持っていないということもあるが、とてもじゃないが差す気にはなれない。
思い出は、水に流せない。心の傷も、癒えはしない。
そんなことは分かっている。それでも、それでも俺は雨に打たれていたいという自虐的な欲求を抑えることができない。
雨の中、俺は君の幻影を探していた。
『由宇…』
さらにひどくなる雨の中、俺は胸中の感情を搾り出すように叫んでいた。



4時間前、俺は図書館にいた。授業はあるが寝ていたい気分だった。
無意味なくらい分厚い経済学の教科書とほとんど使っていない新品同様の英語の辞書を重ね、その上にタオルを置き、即席の枕にして、一番日当たりのいい場所を陣取ってつっぷしていた。
初夏の暖かい日差しの中、俺の意識は夢の世界へ旅立とうとして徐々に暗くなっていく。まぶたがゆっくりと近づく。指先を動かす力が鈍る。至福の境地へたどり着く三分前といったところか。
しかしその時、ふいに携帯が震え、俺の意識は現実へ引き戻された。
少し不機嫌になりながらも携帯に手をのばす。その姿はさながら寝起きの時に目覚まし時計を止めに行く朝の自分を再現しているようだった。
やっとのことで携帯を掴んだ。鞄のかなり奥まで落ち込んでいたようだ。
サブディスプレイには『メール受信1件』とあった。
携帯を開き、メールを確認する。そして軽いため息とともに携帯を閉じる。
なかば予想していたことではあったが、それは由宇からの呼び出しだった。
内容は分かっている。たぶん昨日の電話の文句を言いたいのだろう。
昨日の電話は自分でも嫌になるくらい意味のわからない電話だった。電話を切る直前、怒らせたことを少しだけ後悔していた。あの様子じゃ「バイト明けで疲れてた」なんて言ったらまた怒られそうだ。
しかし、俺は『また文句を言われるのか』くらいに考えていた。
2人の仲はまだ大丈夫だ。そんな認識でいた。
それは甘い考えだったと後になって俺は思い知る。
歯車はもう噛み合ってしまっていた。

俺は今、201号教室の前にいる。由宇が授業を受けている教室だ。授業が終わるまで煙草でもふかしながら待っているつもりでいた。灰皿の近くの窓から意味もなく雲を見つめていた。今日も憎らしいくらい空は青い。そのとき不意に後ろから攻撃を受けた。いきなり脇腹をつつかれたのだ。突然の攻撃に不覚にも俺は持っていた煙草を落としてしまった。誰だろうなんて思わない。この学校で俺にそんなことをするのは1人しかいない。そして振り返ってみるとそこには予想通り由宇がいた。
「またサボりか? そんなんじゃ単位落とすぞ?」
「出席は頼んであるから大丈夫。それにみっちゃんが言う台詞じゃないよ、それ。説得力全然ないよ。またサボりでしょ? ほっぺに線ができてるもの。」
「…うるさい。」
「はいはい。」
少しふてくされ気味に言った俺の言葉をいつも通りにあしらう。
いつもと同じ日常。心地よい小言。いつもと変わらない世界。
しかし破綻は急に、そして不可避に訪れるものだ。誰も抗う事はできない。
破滅の歯車がゆっくりと、音をたてて回転を始めた。
「みっちゃん、話があるから移動しない?」


今、俺たちは食堂にいる。
2人で差し向かいに座っている。
目の前にはさっき売店で買ったアイスがある。
しかしこれを食する雰囲気ではなかった、さっきから重く無機質な沈黙がこの場を支配していた。
しかも最悪なことに食堂の外は梅雨独特の蒸し暑さ、内は空調が効きすぎているためかえって寒いくらいだ。
周囲と俺たち、室外と室内。二重の冷たさに俺は我慢できなくなった。
ついに俺は話を切り出した。
歯車は、加速し始めた。

「で? 話って何?」
いつものトーンを装い、あくまでも普段通りに由宇に話し掛けた。
「……」
答えようとはしない。唇は固く閉ざされたままだった。俺はかまわず質問を続ける。
「黙ってたらわかんないだろ? 何が言いたいんだよ? 何でも聞いてやるからさ。」
「…そんなの…わかってるくせに。」
由宇はこういう返事をする。いつもこうだ。由宇は2人のときとみんなといるときでは態度が変わる。2人のときはかなりの甘えん坊になる。そして俺を困らせたがる。付き合った当時はそれが新鮮で、俺も騎士を気取って『守ってやる』なんて言っていたが…正直、最近は飽食気味だ。価値観のずれだ。性格の不一致だ。しかしそう思っていても絶対に口には出せない。由宇が人一倍傷つきやすいことは誰よりも俺が一番よく知っているからだ。
「わかんないっての。寝起きで頭が回らないんだよ。」
いまはそう答えるしかない。
「もう…昨日の返事のことだよ。話すって言ったでしょ?」
「あぁ…」
俺はどうとでも取れるような返事をした。しかしそれが失敗だった。
再び訪れた沈黙。
こういう会話の間での沈黙のことをどこぞの国では『天使が通る』と言うらしい。
普通、天使といえば笑顔がつきものだ。しかし、俺の天使はまだ暗い顔をしている。
というかうつむいていてよく顔が見えない。
と思ったら小さく頷いて、そして俺のほうを見た。
絡み合う歯車は勢いを増す。
「言いたくないんだけど…私が呼んだんだしやっぱし話すね。結論から言うと…私たちこのままじゃ駄目だと思うの。やっぱりみっちゃんと私って…合わないよ…
だってみっちゃんは…私を束縛するから。私もみっちゃんのことは好きだよ。
でも…その気持ちに応える自信がないの。ずっと一緒にいると…特に。
もしもこの世界が2人きりならそれでもいいと思うよ。でも…私には私の世界があるの。それはみっちゃんでも入っちゃいけないの。
それに…なんかギクシャクして2人ともダメになっちゃいそうな気がするの…。だから…付き合えない。これは勝手な話だけど…友達みたいな関係でいましょ。」

沈黙

由宇が不意に俺の顔を覗き込んできた。
「みっちゃん、だいじょうぶ?」
「大丈夫だよ。ほら、いつも通りだろ?」
「だって…みっちゃんの瞳…すごく悲しくそう。泣きそうになってるよ? 本当に大丈夫?」
「大丈夫…由宇の前じゃ泣かないから。心配…かけたくないから」
「もう充分かけてると思うんだけど。」
「…すまない。今は一人にしてくれ。」
突き放すように言った台詞。そして由宇は食堂から出ていった。


あのまま数時間、俺は食堂で呆けていた。何も考えたくはなかった。しかし時とは無常なもの。今、俺は営業時間を終了した食堂を追い出され、しかたなく駅までの道程を歩いていた。
昼間とは打って変わっての灰色の空。俺の心を代弁するかのような暗く澱んだ、それでいて力強く氾濫する川。
「俺は何をしていたんだろう…」
思わず一人ごちていた。幸いにと言っていいのかわからないが周りには誰もいない。
それにしてもあの女は誰だ? 俺の知っている由宇は絶対にあんなことは言わない。昨日までは俺のことを好きだと言っていたはずなのに。いったい何が由宇を変えたんだ?
メールをしても電話をしても、いつも明るくて悩みなんかないように思ってた。一緒にいることが当たり前で、いつだってお互いのことを思っていた…
そのときバスが横道を通過した。その中にいる友人の姿を見て。ここで俺はある可能性に思い至った。俺は鞄から携帯を取り出し、由宇にメールをした。


『いまどこ?』
返事はいつも通り早かった。
『電車、帰り道。だから電源切るね。』
掛け間違えたのかと思うほど由宇のメールには感情が無かった。しかしそれでも俺は確かめなければいけない。引き続き俺は友人に電話をかけた。

「もしもーし。ヤス? 俺だけどいまドコ?」
「おおっ!カズか? なんで非通知なんだよ? 誰かわかんねーから出るかどうか迷ったじゃねーか。」
「電池切れだっての。よくあるこった。ん? それよりいまお前バスか?」
「ん? ああ。そーだよ。どした?」
「由宇乗ってないか? あいつが俺の財布持ってんだよ。こんままだと歩きになりそう。」
「ははっ、歩きゃいーじゃん。由宇ね…。ん…見た感じ乗ってねーぞ。」
「そっか、さんきゅ。」

最後に俺はヤスの友人の恭征にメールをした。
『ヤスから聞いたんだけどさぁ、ユウとヤスが付き合ってるってマジ?』


返事が来るまでの5分足らずは呆けていた数時間よりも長かった。
返事は
『何でそんなこと俺に聞くの? 自分が一番よく知ってるじゃん。』
これで証拠は出揃った。
つまり由宇は俺からヤスに乗り換えたわけだ。そしてヤスは由宇と俺を別れさせるために由宇に冷たい態度をとらせた。
これ以外には無い。しかし…現実とはかくも厳しいものか…
俺は帰り道にあるバス停のベンチに腰を落ち着けた。そのときタイミングを計ったかのように雨が降り出した。


もうどれくらい経ったのか。屋根の無いバス停で俺は雨に打たれ続けていた。
それがあたかも罰であるかのように俺の体は冷やされていく。このままだと風邪を引くかもしれないなんて考えながら、それでも雨に打たれていたいという自虐的な欲求を抑えられない。
意識が遠くなってきた。
このまま寝てしまえば間違いなく肺炎だな。
そんなくだらないことを考える余裕があるなら大丈夫だ。
思考が分裂する。
由宇が見てたらなんて言うかな。やっぱし「なにやってんの!」かな。でも今頃家に帰っている時間かな。そういや今何時だっけ。
重たい体を無理矢理動かして時計の文字盤をのぞく。文字盤がよく見えない。そういえば眼鏡も外していたっけ。
「10時27分だよ。」
突然、由宇の声が聞こえた。幻聴まで聞こえるなんていよいよやばいかな。
「聞こえてる?」
やかましい幻聴だ。しかし前から声が聞こえる。気になって顔を上げるとそこには由宇が居た。
「最近の幻聴は姿までついてるのか?」
「何意味のわかんないこと言ってんの? ほら、帰るよ。」
そう言って由宇は俺の前に手を差し伸べた。
「ヤスと帰ったんじゃないのか? なんでここにいるんだよ。」
「みっちゃんが来ないから迎えに来たの。電話もつながらないし、お財布も私が持ってるし、歩いて帰るってのは分かっていたから。ヤスくんなら恭征くんと一緒に先に帰ったよ。」
「そういう意味じゃなくて…ヤスと付き合ってんじゃないのか?」
「ええっ!? そんなこと誰が言ってるの?」
俺はさっきの恭征とのメールのやり取りを見せた。
「みっちゃん、思いっきり勘違いしてる。」
「どういうことだよ。」
「恭征くんはヤスくんのことを名前で『和也』って呼んでるの。ほら、本名は安田和也でしょ? でもみっちゃんのことは高安光輝だから『ヤス』なの。だから間違えたんだよ。」
「嘘だろ? そんな都合のいい話があってたまるか!」
思わず俺は叫んだ。

「結局、俺の一人相撲かよ…」
そのとき俺は思い出した。帰り道で見たあの光景を。
「じゃあなんでヤスは由宇がいないなんて言ったんだ? お前ら一緒のバスに乗ってただろ?」
「一緒に乗ってるなんて言ったらそれこそみっちゃんは疑うじゃない。」
やられた、由宇のほうが上手だ。
しかし、ここで最大の疑問が生じた。
「だから何でお前はここにいるんだ? 俺たち別れたんじゃないのか? 何でここにいるんだよ!」
「別れてなんかないってば!!」
由宇が叫んでいた。そして静寂。
「あのね、みっちゃん。私は『このままじゃ駄目だと思う』って言ったの。別れるなんて一言も言ってないよ。正直言って私はそんなに甘え上手じゃないから…それをやめようと思うのって言おうと思って…。友達みたいにいつも自然に居れたらいいなって思ったの…」
後半はほとんど涙声だった。
「だからね…一緒に帰ろうよ。」
そう言って由宇は手を差し伸べた。
俺はもう二度とこの手を離さない。そう決意した。


雨はいつの間にか止んでいた。気がつけば雲間から月が顔を出している。
「…月が見えるよ。」
「…うん。」
右手の先には由宇の左手、優しい温もりが俺の冷たい手を癒す。
いつまでも、この手を離したくない。
不意に右手に力がこもる。
優しく握り返す由宇の手はそれだけで俺の世界を満たしていた。
想いが胸から溢れ出てくる。
「今、俺は幸せだよ。」
「…ありがと。私もだよ。」
照れながらそう答えた由宇を俺は抱きしめた。
月明かりが2人の目前を照らしている。

(End)


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