ベルショース城の夢 Мечта Замка Берсеза

 

  アルフリードへ

 ……思えば夢のようだったあの日々から、なんと遠くまでわたしたちは離れてしまったのでしょうか。無情にもとどまることを知らぬ時の移ろいは、わたしたちのしんじつの距離をも遠ざけてしまった。今あなたは元気でいらっしゃるでしょうか。年中それなりにあたたかいこちらとは違って、あなたのいる都には身を伐るような寒い冬があると聞きます。寒いのがお嫌いだったあなたですから、冬が来るたびにため息が深くなってしまうのかもしれません。とはいえ、あなたももう立派な騎士となっておられることでしょう、もしやそれしきのことでは弱音を吐かぬ身になられましたか。

 もうじきあれから十回目の秋が訪れようとしています。このベルショースの地も、今まで幾度となく繰り返されてきたあの物哀しい風景を紡ぎだそうとしているようです。しかし、今度の秋はわたしにとってはいつもの秋とはちがったものになるのです。その前に、どうしてもこの想いを残しておかなければならないと、そう思ったのです。

 

 あなたが「騎士になるんだ」とわたしにそっと告げたあの日のことを、わたしはよく憶えていません。ただ、そのはっきりした声と、あなたの背に掲げられた夕陽の朱さだけは、今も決して忘れられないのです。

 わたしたちは小さな頃からいつもいっしょの時間を過ごしてきました。ベルショースの城に護られたわたしたちの村には、ただ安らかな時間だけがずっと横たわっていました。いつまでもこの地で生きてゆくのだと、わたしも幼心に感じていたぐらいです。悠大なオカ河の青い流れをふたりしてながめたあの短い夏の日々、白夜迫る秋の夕映えに永遠を想うわたしをそっと見つめる、あなたのそんな優しいまなざし。そして、冬枯れの草原をそっと染めてゆくベルショースの白い雪……美しくもなにか寂しげな風景のなか、いつもわたしのとなりにはあなたがいた。その距離が、わたしにとっては何者にも代えがたい大切なものだったのです。

 しかし、  今さらこんなことを言うとあなたは笑い話だと思うかもしれませんが、その頃のわたしは、その想いの名をまるで理解していなかったのです。その想いの正体を知るには、わたしたちはあまりにも近すぎたのです。いっそ血のつながりがあればよかったのかもしれない、このような仮定も、今はただ虚しいばかりです。わたしはみずからの恋に気づくこともなく、また、気づけなかったがゆえに、あなたに想いを打ち明けることさえできなかった。

 

 あなたはいつもオカ河の向こうにそびえるベルショース城を憧れのまなざしで見つめていました。わたしはそんなあなたを見つめているのが倖せだった。何も変わらないと信じていたあの頃、わたしはあの頃が今は懐かしくてならないのです……。

 

 月草のように淡く青い瞳を輝かせて「騎士になりたい」と夢を語るあなたは本当に生き生きとしていました。しかし、それは他愛もない夢の話で、じつは、わたしはあなたがこの村を出られるとは少しも思っていなかったのです。この村はひどく閉ざされている。昔も今も、数少ない移民はどこまでも冷たくあしらわれ、村を出ようとする者には影ではげしい冷笑の矢を浴びせかける、そして、この村で生まれ、この村で生き、この村で果てることを妙な誇りとしていること  あの頃のわたしでも痛いくらいに感じていたことです。まさかあなたが気づいていなかったとは思えません。わたしたちは、いわば生まれたときからこの村に縛りつけられた存在だったのです。そこからは逃げられぬ、そのような想いを自然と抱いてしまうほどに、その束縛は絶対的なものだと、わたしは信じてやまなかった。だからこそ、心のどこかであなたの夢を妄執だと笑うわたしがいたのです。

 

 ……いちど、あなたとあなたのお父様とが口論をなさっているのを目撃したことがありました。そのとき、あなたのお父様が口になさった言葉を、わたしは今もはっきりと憶えているのです。

“金もないのに、村の一農民が騎士になどなれるはずもない、そんな時代はもうとっくに終わったのだ”と。

 あなたはもちろん強く反発しておられましたが、そのとき、その言葉はわたしの心のなかに決定的な何かをもたらしたのでした。幼いとはいえ、十を二つばかり過ぎたわたしでも、あなたのお父様の言葉は真に正しいものではないかと、思わず胸を衝かれたのです。

 あなたは騎士の物語が大好きでした。わたしはあなたが騎士の物語を語り聞かせてくれるのをいつも楽しみにしていました。しかし……それはやはりどこまでも「物語」だったのです。女のわたしでも、いえ、女のわたしだからこそ、農民であるということの意味の大きいことをあの頃でも十分に理解していた。なぜわたしたちの村が外から入ることも外に出ることをも忌み嫌っているのか、それは何よりもその意味のあまりもの大きさにあったのです。わたしたちがわたしたちであり続けるためには、その束縛を「誇り」とするしか道がなかった……。そして、あなたもその束縛からは決して逃れることはできないと、わたしはその言葉によって無条件に確信するまでになったのです。

 そしてさらに決定的なことに、もう何十年も大きな争いをしていない国にとって、あなたの語るような「騎士」は必要のないものになっているのだと、わたしは妙に納得していたのです。

 ベルショースは本当に平和な地方でした。当代の君主マイカレックス様もまた、平和とこのベルショースの風景をこよなく愛するお方でした。この村にははじめから「騎士」など必要がなかった。  あなたの夢はどこまでも愚かなものでしかなかったはずなのです。

 少なくともわたしはそう思っていました。なのに、あなたはその愚かさを見事に突き破ってしまった。いえ、もしかしたら、そのこと自体はとても簡単なことだったのかもしれません。この村を出られないという想いはまさに「思いこみ」でしかなく、その気になればその程度の束縛など、たやすく打ち砕けるのだと、あなたはその身をもって証明してみせたのです。

 

 この国では騎士になれない、ならばこの国を出るまでだ。あなたのその論理は愚かすぎるほどに単純なものでした、そして、単純であるがゆえに、それ以上の真理もなかったように、今のわたしには思えるのです。じじつ、あなたにはその信念を実行に移すだけの体力も気力も十分に備わっていました。その上、あの頃のあなたにはすべてを捨ててしまうだけの勇気と不遜さが  若さゆえの不遜さがたしかにあったのです。

 ひとは、……ひとは年をとるにつれて、何事に対してもためらいの心が生じるようになり、その心はしだいにそのひとをその場へとがんじがらめにしてしまいます。考えることばかりがうまくなって、動くことをすっかりと忘れてしまうのです。

 不幸なことに、あの頃のわたしはそんなことにも気づけなかったのです。もちろん、そこまで人生を達観できるほどの年齢ではなかった、というだけのことかもしれませんが。しかし、あなたをとどめることさえしなかったわたしは、やはり動くことをすっかり忘れてしまっていたのです。「ためらうわたし」はその頃からすでにわたしのなかで育ちつつあったのです……。

 

 あなたが「騎士になるんだ」とわたしに告げたあの日、わたしは何かを失ってしまった。取りかえしのつかない何かをたしかに失ってしまったのです。それでも世界は何ひとつ変わらなかった。秋を迎えようとするベルショースの夕陽(ザカート)は透きとおる炎のように物哀しく、そして美しかった。秋になればいつも感じる想いを、わたしはあの日もしっかりとこの身に受け取っていたのです。

 わたしだけが変わってしまった。あなたといつまでもいっしょにいたいというわたしの無邪気な願いも、あなたがこの村から出ることはない、というわたしの身勝手な思いこみも、すべてあの日の夕焼けが  いつもと何も変わらないはずのあの夕焼けが奪い去ってしまった。

 

 夕陽にかげるあなたの表情を思い出そうとすると、奇妙なことに、その表情そのものよりも、それまでのあなたとの日々ばかりが心に浮かんでくるのです。それらは夢のようにとりとめのない順序をなして、わたしの心をかき乱しながら通り過ぎてゆきます。

 いたずら半分に、暖炉の精霊のために備えられたミルクを親に見つからないように分けあって飲んだあの冬のこと、草原にふたり寝そべって風の音に溶けあった短い夏の日々、無邪気に同じベッドにもぐりこんで長雨の音に耳を傾けていたあの幼かった日々、純粋なよろこびはいつしかかすかな恥じらいをともなうようになりましたが、しかし、あなたといっしょにいられるというわたしの想いはいつまでも変わらなかったのです。それがあの日、ふいに終わりを迎えてしまうとは、  あの日こそ、どうか夢であってほしかったと、今でも思わずにはいられません。あなたを止めるどころか、決意を胸に抱いたあなたを前に、何も言えなかったわたしの弱さです。今さら気づいてももう遅いのです……。

 そうとはいえ、止めたところで自分の意志を曲げるようなあなたではありませんから、どちらにせよ、あなたはいずれベルショースの束縛を断ち切り、みずからの道を進んでゆかれたことでしょう。でも、そこでわたしの想いを少しでも打ち明けておくのと、まったく秘めておくのとでは大きく意味が違ってくるのだと、今では確信できるのです。

 もちろん  あの頃のわたしは「秘めておく」ような想いの正体にまったく気づいていなかったのですが、しかし、その何かはそのときのわたしを決して突き動かそうとはしなかった。やはりわたしは単なる臆病にすぎなかったと、そう思うのです。その臆病さが、わたしから何か大切なものを失わせてしまった、そして、あなたそのものをも失わせてしまったと、自分を責めることしか今はできないのです……。

 

 ……そういえば、ふたりで密かにベルショース城の敷地へと忍び込んだのは、まさにあの夏のことだったでしょうか。オカ河の向こうはすべて領主様の土地で、わたしたちがそこへ足を踏み入れることは禁じられていました。しかし、じっさいは禁じられていたにもかかわらず、そこへ入ることには何の障害もなかったのです。君主マイカレックス様はひとりの歩哨もオカ河に渡す橋の上に置いておられなかった。ただ、わたしたちのなかにいつの間にか不文律のようなものが築かれていただけで、先代マイカレックス様の時代の名残はもはや何ひとつもなかったのです。

 そのことに誰よりも早く、そしてただひとり気づいたのがあなたなのでした。あの日、わたしたちはふたりで、手に入れた秘密を共有するように、皆が寝静まった夜、手を取りあってオカ河を渡りました。褐返(かちがえ)しの色に染まった空を、月が琥珀のようにはっきりとした光を投げかけていたのを思いだします。

 川面が銀に輝く橋を渡り、草原のお辞儀を一斉に浴びて、城に近づくわたしたち  とりわけ、あなたの心は大きく弾んでいたことでしょう。今まで近づくこともできなかったベルショース城がこんなにも近くに迫ってきたのですから。

 「憧れ」は近くに見ると思ったよりも大きく、堂々とした風格を備えていました。そして、石壁が月光に照らされるさまは、なぜかわたしに及びもつかぬほどの時の移ろいを感じさせたのです。それは、おそらくは何の変哲もない風景のひとつでした。でも、そのような風景のなかに、わたしは突如、抗いきれぬ無情な時の流れが隠されていること、そして、ものみな必ず過ぎゆく運命にあり、わたしも決して例外ではないのだと、そんなことを宿命的に強く感じ取ってしまったのです。

 ふいにわたしは不安になりました。今まで考えたことのないような想いが、わたしの心のなかで一気に氾濫を起こしたのです。このベルショース城も、いつかは必ずあるじを失うときが訪れてしまうのだ、そして、わたしもいつかは消えてなくなってしまう、永遠はいつか必ず風化してしまい、そこには何も残らないのではないのだろうか  

 

「わたしたち、ずっといっしょだよね」

 

 そんな言葉をはからずも口にしてしまったこと、わたしは決して忘れません。それまで一度も疑うことのなかったその想いを、そのときわたしは初めて疑ってしまったのです。わたしは「もちろん」という答えを期待していました。しかし、あなたはあいまいにほほえむだけで、ついにその問いには答えてくれなかったのです。……きっと、そのときにはすでにあなたはこの村から出てゆくことを決意しておられたのでしょう。幼かったわたしはあなたの無言をじぶんの都合のいいように解釈していました。それもまた、あの臆病のなせる業だったのです。

 

 あの夜、それからわたしたちはずっと城の石壁にもたれかかって空を見つめていました。ひとことも話さず、ただ一心に、空の移ろいを美しいと感じるだけの時間を過ごしていました。そこに言葉は必要なかった。ただ、「となり」というこの距離と、あなたの手のぬくもりさえあればよかったのです。それだけが、わたしの倖せなのでした。恋を知らなかったわたしの、唯一の「倖せ」だったのです……。

 

   今、こうして十年もの時を隔てて思うことは、この村にいつまでも縛られているわが身の運命についてです。わたしたちがわたしたちであり続けることを重んじるあまり、わたしはわたしの自由を見失ってしまったのです。その気になれば、たとえ女であったとしても、あなたのように自由に羽ばたいてゆくことはできたはずでした。しかし、わたしにはどうしてもそれができなかった。あなたと離れたくないのなら、あなたを追ってゆけばよかったのです。なのに、わたしは結局何もしなかった。そんなわたしの心は、やはりどこかで「騎士になる」というあなたの宣言を信用していなかったのです。

 

 ……十年の間、あなたから便りがきたことはただの一度もありませんでした。わたしはあなたの正確な居場所を知らなかったので、手紙を出そうにも出せないのでした。いえ、それ以前に、わたしは今の今までこのような便りを書くことさえ思いつかなかったのです。

 

 あなたが本当に騎士になれたかどうか、わたしには正直なところはまったく分かりません。ただ、ズルバガンの都に腕の立つ「騎士」が現れたという風の便りだけは、ずいぶん前に耳にしたことがあります。それがあなたなのかははっきりとしません。でも、わたしは根拠のない確信を抱いているのです  おそらくそれこそがあなたなのだ、と。信じることに、わたしはじぶんのすべてを賭けたいのです。それは、わたしがこの強固な束縛から少しでも自由になるための、唯一の手段なのです。そして、今こそがその賭けにのることのできる最後の機会なのだと、そのような気もするのです。

 

 ……明日、わたしは嫁いでゆきます。この村に生きる以上、それは避けることのできないわたしの運命なのです。あなたとの日々を忘れたわけではありません。が、ひとはひとりでいつまでも初めての恋にしがみついてばかりではどうすることもできないのです。

 わたしはあなたを失ってしまった。でも、それは決して恋を失ったことにはならないと思いたいのです。その気持ちに嘘はなかった。いつまでもいっしょにいたいという想いはたしかなほんものでした。それさえ忘れなければ、わたしはただ一度きりの初恋を、たとえそれが叶わなかったとしても、大切なものとして抱えてゆくことができると、そう信じていたいのです。

 

 明日からの秋は今までの秋とはちがったものになるのでしょう。あなたとの日々も、やがてはほほえましい過去となり、どんどんとわたしから遠ざかってゆくのです。

 

  ものみなひとときのこと 世のすべては過ぎゆき

  過ぎ去れば すべてがいとおしくなるだろう

 

 かつて、この国の偉大な詩人がそう詠ったように、わたしはそれを甘く疼く想い出として受け容れられる日々を、そして、それをも忘れ去ってしまい、土に還るその日をいつか必ず迎えるのです。

 ただ、わたしは今のわたしのこの想いをどうにかして残しておきたかった。だからこそ、この手紙をしたためたのです。

 しかし、この手紙があなたの手に届くことは決してありません。わたしは、この手紙をこれからベルショース城のあの石壁のそばに深く埋めてしまうのですから。  これは賭けなのです。

 

 こんな愚かな想いを、わたしは誰かに知ってほしいとはまったく思っておりません。わたしの人生など、大きな時間の波に呑まれてしまい、何も残らないでほしいとさえ願っているのです。でも、その反面、こうしてわが身の想いを残さずにはいられないという、矛盾した想いがあることも事実なのです。わたしたちであり続けることを願う心と、わたしであることを願う心。どちらにも賭けたいと思ってしまうわたしの業の深さを、どうかお許しくださいませ。……これはまったく先の見えない賭けなのです。

 

 この手紙を書き終えたら、わたしは銀の小箱にこれを詰めて、オカ河を渡ってゆきます。今日はとてもよい月が出ております。そう、まるであの日の琥珀の月のように……。

 いつかこの手紙を誰かが見つけるかもしれないし、その前に跡形もなく朽ちてしまうかのしれない。でも、わたしにとってはどちらでもよいことなのです。わたしは、ただ、ベルショース城にわたしのを託してしまいたかっただけなのです。

 この手紙は、揺籃(ベルショース)に抱かれて、時をたゆたうことになるのです  その結末がどうであれ、わたしはもう何も悔いることがないのです。わたしの目的は、この手紙を書くことによってすでに達成されているのですから。

 

 ……もう時間がなくなってまいりました。残念ですが、別れを告げなければなりません。急いで書き上げたので、文章が乱れているでしょうが、それはもはや仕方のないことです。

 しかし、最後にひとつだけ、はっきりと申し上げておかなければならないことがあります。わたしは、二度とあなたに会えるとは思っておりません。はじめに記しておいたように、十年という長い時間はわたしたちのしんじつの距離をも遠ざけてしまったのです。もはや、すべてがわたしたちの力ではどうすることもできぬところまで進んでしまったのです。

   あなたに対して、このようなことばでしか想いを残せなくなってしまったこと自体、すでに取り戻せない「何か」をわたしに感じさせてしまうのです。もっと素直になっていれば、すべては変わっていたのかもしれない……でも、そのような虚しい空想はもうやめにしましょう。今は一心にお互いの幸福を祈るばかりです。

 

  親愛なるアルフリード・クローデルへ

 

          真夜中の礼拝堂にて

               マリア・ヴュンシェンより

                       愛を込めて

                                   (了)


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